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248話 正しい諦め方

皆様は、「諦める(あきらめる)」と聞くと、どう感じますか?




「諦める」と言えば、普通は、断念したり、悪い状態を仕方がないと受け入れること。




例えば失恋した時に、「あなたをふった恋人のことなんかもう諦めて」とか、財布をなくした時に、「見つからないからもう仕方ない、諦めた」とか、テスト前に勉強していない時に、「明日の試験はもう諦めた」というように使います。




諦めると言えば、普通は、断念したり、悪い状態を仕方がないと受け入れるといったネガティブな表現で用いられますが。。。




話は逸れますが、私は仏像マニアであります。国宝と呼ばれるものから、珍しい仏像はほぼ見てきました。その過程で仏教に触れることが多々ありまして、共感のもてる考え方にも触れてまいりました。その中でも心に残っている考え方をお伝えします。




あくまで個人的な解釈ですので、誤訳はご容赦ください。




本来、仏教ではこの「諦める」は、本来は仏教が語源で「 諦観たいかん」と書きます。




諦観とは「あきらかにみる」ということ。




※ちなみに「諦観」の読み方は、世間では「ていかん」と読みますが、仏教では「たいかん」と読みます。




諦観  -たいかん-

<諦>はあきらか、つまびらかであること、あきらかにすること

<観>は注意して見ること


それゆえ<諦観>は、あきらかに視ること。




他人の悪口を言ったり、他人ができているとか、できていないというのではなく、自分の行いをみて、自分が正しいかどうかを明らかにみつめなさい、ということです。




諦めるは、仏教では「あきらかにみる」(諦観)という意味ですが、何をあきらかにみるのかというと?




真理をあきらかにみる」ということです。

つまり、因果の道理をあきらかにみる。


ということ。




善いたねをまけば善い結果、悪いたねをまけば悪い結果が現れる。自分のまいたたねは、自分が刈り取らなければならないという因果の道理をあきらかにする。




悪い状態になった時、自分がこんな結果を受けたのは、一体どこに原因があったのか?




たいていは、「あいつが悪いんだ、もういいよ、あきらめよう」と人のせいにしますが、仏教の諦観は、そうではありません。一体自分のどこに原因があったのかあきらかにみる、ということです。




そう考えると、諦める方法の具体的な4ステップは以下のようになります。



①失敗を真正面から見る。


②言い訳したりごまかしたりせず受け入れる。


③対策を立てる。


④実行する。




仏教では、まかぬ種は生えませんが、まいた種は必ず生えると教えられています。悪い結果を、忘れるのでもなければごまかすのでもなく、根本的な原因を明らかに見て、悪い種まきをやめて、少しでもいい種まきをしようというのが諦観です。



諦めるとは、本来はこんなにポジティブなんです。




世間で使われている意味は、仕方ないと思い切る、断念する、ということ。一方、諦観の意味は、原因(因果の道理)をあきらかにみる、ということ。



諦めの捉え方を変えることで、反省が深くなり、向上心が強くなり、反省と向上を繰り返し、たくましい人生観が開けてきませんか?




最後に、元陸上選手の為末大さんの言葉で締めくくりたいと思います。



“僕が言いたいのは、あくまでも「手段は諦めていいけれども、目的を諦めてはいけない」ということである。”



今日は未来につながる「諦め方」を綴ってみました。

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